昔読んだ本はうろ覚え「脳死は人の死か」

昔読んだ本

先日のニュースで、
宮崎県内の病院で10代前半の男の子が脳死と判定され、臓器が提供されることを知った。

故人の冥福を祈ると共に、ご両親の心安らかなる日が、早く訪れることを願う。

確か、夏の頃にも、似たようなニュースを聞いている。
少しずつ、臓器提供と言うものが認知され、コーディネートされた道のが出来上がりつつあるのだろうな、と思った。


さて、
昔読んだ一冊の本の題名は
脳死は人の死か」だったような。

人の死の定義が、脳死とする場合、今迄とどう違うのか?どう感じるのかを色んな立場の人から考えて…がテーマだった筈だ。

覚えているのは宗教者と医療従事者。
きっと法曹の方から話もあったんだろうけど、覚えていない(笑)

といっても、うろ覚え。
印象に残っているエピソードは2つだけ。

1つのは、
「心臓が動いていて、身体も温かいのに、それを死んでいるとは、認められない気持ちの悪さ」

例え、元には戻れないと分かっていても、変わらず鼓動も体温もある身体を、
死んでいる、と思わなくちゃいけない、という強要が脳死にはある。
これは、近しい人…家族とかは、受け入れにくい事なんだろな、と実感した言葉だった。
脳死とは、それを乗り越えなければならない、乗り越えて臓器移植へ繋げるステップなんだな、と思った。
死がスタートとなると言うのは、遺族には過酷なステップだな、と。


それからもう一つは、医療関係者の臓器移植する際の様子の描写。ドナーの体つき自体に生体反応があり、生きようとしている身体を…と生々しい描写だった。

実は、それまで移植に全く反対するつもりはなかったが、これを読んで私はドナー登録を、する気にはなれなくなった。
この描写を読んだからだ。
私がこの描写の何に、影響をうけてそう思うようになったかは、当時、全く考えなかったけど。

さて、今回の報道で遺族のコメントを読んで、100%ではないにしろ、ケアがあるんじゃないかと思えた。
ケアがあるにしても、「虐待の有無を確認される」のって、キツイ事実だと思うけど。

そして、ふと思った。
ドナーの移植手術に携わる医療スタッフへのケア。

生かす事を生業としている人達が、ドナーの命を、終わらせる作業をしなくてはならない。その作業の先に、又、生かすためのステップだとしても、やはり過酷な仕事だ。

今なら分かる。
あの時読んだあの文章は、医療従事者の苦しみだったんだ。
私はまだ、誰の死も看取ったことのない、平和な人間で、生と死の狭間を知らなかった。知らなかったからこそ、簡単に臓器提供を世間知らずのまま言い放っていたのだ。その現実を垣間見て、恐怖して、私がドナーとなることを拒んだ。

きっと、そこはケアが出来てるんだろう。介護従事者の看取りケアすらを聞いたことがある。
けど、見えないままなのと、医療現場から全く遠い、覚悟の無い私は、やっぱりドナー登録をしないままだし、家族のもしもがあった場合、拒否する
…かもしれないな。

これを書いている内に思い出した。
私はあの本を買った時、臓器移植に肯定的だった。もし、何かあったら、臓器提供は当然だと思っていた。
反対している人を黙らせるであろう事柄があの本の中にあると思って、あの本を読み始めたのだ。
実際は、その本を読んで、予想に反して、臓器提供を拒んでいる。
これは、自分的に驚いたこと。